神楽坂坂下の交差点を飯田橋駅の方に渡ります。そして坂をのぼらずに五叉路の交差点のほうに少し歩くと古ぼけた看板が1枚あります。これ、夏になると植物が茂り始めてほとんど見えなくなるのですが「飯田壕」という名前と「昭和五十九年」という標記が気になって写真に撮っておきました(3月のことです)。だって昭和59年といったら1984年ですからほぼ40年前の看板ですよ! 平成の30年も生き延び、今に残っているとはびっくりです。
せっかくなのでここで文字起こししてみましょう。えーと。
「ここから飯田橋まで、現在ビルが建っている一帯全部が、以前は深い濠になっており、飯田壕と呼ばれていた。
飯田堀や市ヶ谷濠、牛込壕から神田川に書けて続いている江戸城外濠のひとつであった。
昭和四十七年に都の市街地再開発事業としてビル建設が決定され、飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から飯田濠の一部を復元した。
この道路脇の石垣は、江戸時代のものである。
昭和五十九年二月
東京都」
だそうです。
現在、ラムラが建っている場所はかつては飯田濠と言われておりお堀がつながっていました。軽子坂下あたりは神楽河岸と呼ばれ江戸湾からここまで水運がつながっており、荷下ろしも盛んだったといいます。戦後の時代の流れで水質汚染が深刻化した頃、飯田濠の部分は埋め立てられ再開発になったのです。ここより東は神田川につながるので残り(上空は高速道路に利用されたこともあったか)、ここより南西のほうは再開発の必要が高くなかったからか、お堀がそのまま四ッ谷駅近くまで残ることになりました(四ッ谷駅以降の真田濠は埋められて上智大学のグランドとなった)。
当時は相当の反対運動もあったようです。ちょっと検索していただければいろんな話題が出てきます。最後まで残っていた地主が強制代執行になるかならないかのところで最後は立ち退いたことと、いろんな立場の人たちが反対運動に関わっていたことなどを書き留めておいたホームページがいくつかヒットします。そんな経緯も、この古ぼけた看板に秘められているといえます。
ちなみに飯田濠、実は地下に密かに残されています。牛込濠に溜まっている水は、牛込橋の下を抜けて小さな滝のように流れ落ちていきますが暗渠化された水路につながっていき、外濠通りに沿い神田川まだで今も通じているのです。飯田橋(JR飯田橋駅東口を出たすぐ)のところを覗き込むと暗渠が神田川につながる部分を今も見ることができます。

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